書簡・編

おたくもすなる日記といふものを、我もしてみむとて、するなり。

045: 2021年6月18日_俳優•松村北斗論

俳優 松村北斗じたいんだ

1.序論

理が勝って表現者や創作者にはなり得ない人間性の筆者は、表現を通じて自分の心を動かしてくれる者に対し感謝と憧れの念を強く持っている。2017年以来その対象となっている松村北斗氏(以下、松村)が熱意を注ぎ精力的に携わる演技の分野において、これまで筆者が鑑賞にあたり重きを置いてきたのはストーリーや映像表現であった。

筆者には演技の経験や理論的背景もなく、好きな俳優の出演が視聴・鑑賞の動機づけになったり、演技に心魅かれたりすることこそあれ、演技の良し悪しを語る知識も見識もない。本論文の目的は松村の演技を「語りたい」と考える筆者が鑑賞者の立場から「演技力」を定義し、その定義を以て松村の演技を論じる過程を通じ知識や批評眼を涵養することである。

2.演技力とは

ドラマや映画において筆者が演者に求める役割は

  • 物語を成立させるためある人物像を表現する(役柄の説得力)
  • 共感〈反感)、悲しみ、喜びなど何らかの感情を喚起させる(喚起力)

の2点である。脚本や演出に負う部分もあるが、演者が脚本を解釈し演出意図を活かせているか、などの関係性を含めて、2点の両者、あるいはいずれかが果たされる場合に筆者は演者の「演技力」を感じとることが多い。この2点を遂行するために必要な基礎能力は以下の知的・身体的能力であろう。

  • 知的能力:脚本の読解力、文脈(context)の理解力、監督や他の演者の意図を読み取る能力
  • 身体能力:表現を見る者に届けるための発声、滑舌、身体コントロール

知的能力

脚本の読解力、文脈の理解力

演者がいかに脚本に書かれた台詞や状況を読解しストーリー上の文脈を理解しているか、その能力を視聴者の立場から評価することは難しい。筆記思考の研究においては、書くことと読解すること、理解することとの強い関連性からそれらを包括して読解力として論じることが許容されており*1、本項では執筆活動が活発な松村において比較的判断が容易な“書く能力”を評価することで読解力や文脈の理解力の評価に代えることとする。

松村は随筆「アトリエの前で」で幼少期から現在に至る自身の日常の事象に絡め、仕事への矜持や他者との関係性における内心の動きを綴っている。時に自他ともに認める人間関係の“苦手感”が再現・抽出され記述されていたり、叶わなかった願望が語られたりする痛々しい印象を与えかねない内容でありながら、諧謔と客観性をもって自己憐憫に陥ることを巧みに避けているために、松村曰く“微笑ましさと少しの切なさ書く能力”をもつ、ほの温かい読後感を抱かせる文章となっている。月刊誌の連載という時間的制約と字数制限のある媒体での筆力は高く評価されて然るべきである。この随筆における“ジメっとした文*2”の他に松村は公式ブログにおいては所謂“ギャル文体”や、“絵文字顔文字大暴れ会”、“表現が薄暗い”深層心理会、“趣味会”などと自ら分類する文体の使い分けや、主体が頻繁に入れ替わる文体など多様な表現様式を駆使して投稿が単調になることを逃れており*3、所属グループのラジオ番組において極めて演劇的なジングルを定められた秒数に収める手腕と併せ、書き手としての能力の高さがうかがわれる。

また「アトリエの前で」において昨今では本文の雰囲気によらずむしろそちらが主題かと匂わせるような1文を最後に置いたり、ラジオにおける“近況報告”と称するつらつらとした語りの起承転に突然、全く軟着陸などではない“結”を放り込んだり、前者の読者にはグラビアを含めた、後者の聴き手には声色など聴覚情報のみによる即時の、高度なcontextの理解を迫る挑戦的な構成を行っている。逆に聴き手の理解を促す構成力に唸らされたのがラジオ・チャリティ・ミュージックソン2020*4における松村のプレゼンテーションであった。自分とテーマの関係性を概説しスタジオ共演者に質問する導入から、インタビュー音声を一度サマライズした後に問題提起して意見を募り、さらに今後の展開を考察し、結論を述べる。松村の洞察力が伺われる内容のみならず、プレゼンテーションのお手本のような構成からは、高等教育課程を正しく修めた成果がみてとれる。この構成力と、書き手としての能力を併せ持つことは、松村の文脈の理解力や脚本の読解力を担保する根拠として十分ではないだろうか。

監督や他の演者の意図を読み取る能力

一般に“コミュニケーション能力”と評されるこの能力について、松村はその不足を自認し苦手と公言している。コミュニケーションを苦手とする場合には、他者の思惑を「読み取れない」か「読み取れすぎる」の2つの理由があると筆者は考えるが、後述する3点の事象から類推するに松村は後者であろう。

第1に、発信者としての松村は受け手の状況に対する的確な想像力を持っている。ラジオの聴取者やブログの読者がその文脈や関連事象を把握していない可能性やどのような情報が受け手に益するかを念頭に、逐一語句の定義、自分や所属グループと番組や仕事関係先との関係について説明することを忘れないのである。

第2にYoutube企画における*5、意思疎通に気まずさを伴うために「不仲」を公言していた相手との会話において、松村は話の流れを巧みに操作し課題を達成する。その過程からは松村が他人の考えを推し量り、相手の行動や考えを操作することに長けていることが推察される。

第3はファンのSNSにおける反応からの推測であるが、松村がパフォーマンスにおける自身に対するファンの期待に巧みに沿い、逆にある程度の想定外を含めることで効果的に自己演出していることである*6

以上の3点の事象を以て、松村の「人付き合いが苦手」との認識は、私的な人間関係においては気がつきすぎて疲れてしまうか、相手の行動や考えを忖度してうまく立ち回ることに自己嫌悪してしまうか、その両者によるのではないかと推察する。つまり対象者の状況に対する推察力と配慮に秀でた「気が付く人」である松村は、演技の現場で監督や他の演者の意図を汲み自らの行動に反映させるに十分な資質を有しているのではないだろうか。実際、松村も職務の一環としてであればコミュニケーションは比較的容易であると語っている*7。初主演作となった映画「ライアー×ライアー」の撮影現場においては「他の演者やスタッフに対して座長然としてふるまう」ことよりも「皆さんの胸を借りながら、自分のことに集中し、誠心誠意自分の役と向き合うだけ、それが今回の在り方として一番*8」と述べているが、その謙虚な身の処し方もある種のコミュニケーション能力であろう。だからこそ同作の耶雲哉治監督は松村の現場における責任感と気遣い、ふるまいを、好感を持って語っているし*9、同映画をはじめとする松村の演技の仕事*10がそれ以前の仕事を共にした製作者からの指名により実現しているのであろう。これらの事実が仕事現場における松村のコミュニケーション能力の確かさ*11を裏付けている。

 

上述の根拠より、松村は演技を支える知的基礎能力を十分に有しており、加えて後述する感情のストックの多さ、複雑さが演者としての松村の知的基盤を構築し、その発揮を十分な身体能力が担保するものであると筆者は考えている。

身体能力

発声

松村の声はよい。「声がよい」とは漠然とした評価で好みもあろうし*12、演技に必須かといえばその限りではないが、俳優の”好感度”要素として声のよさは容姿の美しさと並び挙げられることが多い。月並みな“甘い声”という表現よりは冷涼で硬質な響きに聴こえるが、例えばAniplex配信イベント*13のチャット欄で松村を知らないアニメファンの「声がよい人」「声優でもいけるのでは」との書きこみが散見された*14ことから普遍的に“声がよい”と判断して支障ないのではないか。CMの最後に“ジョア”と声を合わせる、いずれも声に定評のある6人の中で最後まで松村の声は響いており、強くよく通る発声である。加えて喋り、ライブ中の煽り、ジングルにおける別人格の喋り分けなど声色使いも多彩で巧みである*15。歌唱においても「光る、兆し」以降ソロパートのみならず下のハモりやオクターブ下、最新曲では高音域の歌唱まで担当できる程、音域も広げてきているのである。

結論、松村の声は、よい。

滑舌

松村自身は主演映画制作公表にあたり「到底お芝居には向いて無いところがたくさんあって」という自己評価と、その例として滑舌を「何年も頑張って今まだまだ直し途中」と述べる程に苦手意識をもっていたようである*16。筆者の聴取し得る限りではラジオやYouTubeコンテンツ、ライブMCにおける松村の内発的な喋りはむしろ「流暢がすぎて止まらない」印象であるから明らかな器質的要因はないように考えるが、滑舌や吃音など発声の問題には身体的条件以外に精神的な要因も影響する。人前で上手く話さないといけないと思う程精神的に追い込まれて上手く話せなくなることや、疲労や緊張で舌が回らなくなることは、平素特に滑舌の問題を意識しない人でも経験することである。ましてや他人の手になる言葉を記憶し内在しない感情をのせることで、他人に状況と感情を理解させるという「不自然」なことを「上手」に「自然」に行うこと*17が要求される仕事に熱望して従事するきまじめな青年である。以下は推測に過ぎないが、例えばたまさか生じた過去の「大事なところで噛んでしまった」経験が喋る前の不安や嫌悪感を招来し(古典的条件付け)、その精神的ストレスが完璧主義者にはなお強く感じられ、頑張る程に思うに任せない状態に陥っていたのではないだろうか*18

しかし、そもそも滑舌のよさは演じ手にとって必要条件なのであろうか。勝新太郎氏はかつて「マイクで収録するとハッキリしすぎて偽物臭い。遠くでボソボソやってんのが本物っぽい」と語ったそうである。日常会話においては滑舌よく喋ることの方が珍しいし、勇気を振り絞った告白や秘めた思いの吐露を滑舌よくする人がいるものだろうか。台詞が聴きとりやすいに越したことはないが、少なくとも筆者は松村の台詞に聴きづらさを感じたことはほとんどないのである。

身体コントロール

筆者は以前テレビ局の診療所*19でドラマのディレクターから「膝が痛い老人の歩き方」について相談されたことがある。あるベテラン俳優の役作りのためだと伺い、形から役を作りあげるものなのだと興味深く思った。「芝居をするということは、体の一部に意思を与えるということ*20」との演技指導者の言葉どおり「脳内でイメージした通りに身体が動く」こと「身体を自在に動かすことで表現する」ことは演技の根幹なのであろう。

自在に身体を操るという点では、筆者の好きな「突然苦しみだす人*21」の、複雑で奇妙に力感のある身体の動きのイメージを即座に具現化して披露できることに松村の身体コントロール力の高さを感じるのである。ダンスにおいても振付に演劇的自己演出(血管を切り血飛沫をあげる、など)を加えることが多い松村が抽象的イメージを身体表現することに平素注力していることは想像に難くない。

松村は手の表情も豊かである。手も重要な要素となるグラビアはいうに及ばず、CHENGE THE ERAツアーのT∀BOOで「運命の扉」をこじ開けるかのような手の動きの意志的で雄弁だったこと。見切れ席からかろうじて手だけが見えた時すら、当時の所属グループの状況を重ねて筆者の想像は拡がったものである*22

基本的動作における松村の身体能力は傑出している。体幹が安定し動きにばねがあり、跳ぶ、走るなど美しい動きに魅了される*23。「パーフェクトワールド」では慣れた松葉杖さばき以外に片脚を折り畳んで車いすバスケをするという難易度の高い動作を当然のようにこなす。

しかも「動ける人」である松村は(逆よりは容易であろうけれど)必要に応じて「動けない人」を演じることにも優れている。「レッドアイズ」では本来の端正な走りではなく天才ハッカー(=インドア派?)らしい脚の上がらないちょこまかとした走りをみせ、撃たれれば反射的防御をせず木偶のように潔く後ろに倒れるという献身的な身体コントロールを見せるのである。

動的要素だけでなく、松村は姿勢のよい佇まいも魅力的である。滑舌同様、現実世界で人はそれほど姿勢よく暮らしているわけではないので役柄によい姿勢がいつも要求されるわけではないが、しかし役や状況に応じて苦労せず良い姿勢をとれることは重要である*24

以上の論拠から俳優としての松村は「演技力」の基礎となる知的・身体的基礎能力に優れていると結論できよう。

次項では基礎能力を備えた上での松村の「演技力」について論じる。

3.演技力

「物語を成立させるためある人物像を表現する(役柄の説得力)」

俳優を評するによく使われるのが“憑依型”という言葉である。国語よりも答えが明快な数学が得意であると語ったように概ね理詰めで理路整然としたタイプであると思われる松村は、演技においては所謂“役が憑依する”というタイプではなく、前述の知的基礎能力を以て脚本を読み込み考えて作り上げ、身体的基礎能力を以てそれを表現するタイプと想像している。 

ジャニーズ事務所に所属するタレント達(以下、ジャニーズ)は10代半ばにして点数や勝ち負けといった明確な評価基準のない世界で“自分”を商品としてし烈な競争を勝ち抜く必要がある。舞台やレッスン場の大勢の中で目を引く力がないといけないし、それができて初めて世間の耳目に触れる存在になり得る。ジャニーズが演技の場において役を「作りこむ」結果、その存在意義でもある強い存在感や華やかさが「やり過ぎ感」に、声の抑揚や表情における過剰さや「けれん」となり、それらが嫌みにとられたりすることはよく目にすることである。

しかし、俳優としての松村は「ちょうどよい」*25。身体的には高過ぎもなく細すぎもなくちょうどよく筋肉がつき、スタイルのバランスがよく、整っているが派手過ぎず特徴的すぎない顔。演技の究極系は、そこに当たり前に存在すると感じさせ、どのような状況・場所であれ説得力を持たせる事ができることだそうだが、そのためには自己主張しすぎない存在感は非常に重要な強みである。俳優その人個人のキャラクターが世間に知られるようになると、それを反映させた役を与えられることになりがちで、ドラマを観ていても“その俳優が演じている”が先にきてしまうが、この特質があるから露出が飛躍的に増えても新鮮さを保てるのではないだろうか*26

演技においては控え目である松村は、一方でジャニーズの本業とも言えるコンサートのパフォーマンスにおいては荒ぶる姿から静かにバラードを歌いあげる姿、無邪気に笑い転げる姿、“理路整然とした狂気”を計画的に添加して多様に、表現者としての外連味や(よい意味での)ナルシシズムを前面に出し、「よりかっこよく存在する」努力を照れや謙遜もなく強気に全開しているように見える*27。ジャニーズは、演者であると同時にプロデューサー兼ディレクター的な視点を持っていることが多いように思う。ごく早期から現場に放り込まれ、観る人に自分がどう映り、画面にどう収まっているか俯瞰で正確に感じとり自分の動きに反射的に臨機応変に反映させる術を体得しないと生き残れない。そのような社風や育成方針により醸成された能力だと思われるのだが、ジャニーズの中でも特に現場や媒体によって「自我の露出度・ナルシシズム」の濃度を自在に変化させているように見えるのが松村の興味深い点である(図1)。

図1 : 松村の媒体における自我の露出度と特徴

同様に、まさしく意図的、戦略的に「多様・多彩」を展開してきたのが、自ら戦いと称した2020年11月~2021年2月の雑誌露出であった。把握する限りでは表紙17誌、特集雑誌55誌。100本ノックのような露出において、恐らく取材日も限られた中で手を抜かず、素人目にも一つも同じ物を世に出さなかった努力とプロ意識と感性に感じ入ったものだった。

恐らく意図したものではないのであろうが、オフショットやインスタグラムで脈絡なく突然発動する静かな狂気を思わせる逸脱行為*28と、松村が見せる”素の姿*29”は逆に極めて演劇的なのではないかと筆者は感じる。前者は“プロ意識”によるサービスなのか、“お茶目な性格”の露見なのか不明であるが、まさに奔放な感性が炸裂して体現化されたものである。

後者は意図的であるのか、内在して時に意図せず滲み出るものなのかは不明であるが、身体の形状としては身長、肩幅、四肢体幹の筋肉のつき方、咽喉ぼとけなど男性的で、しっかりした顎や秀でた額から女性的な印象を受ける顔ではない松村が、時に極めて女性的に見える時があるのだ。筆者がはっとしたのは「パーフェクトワールド」の宣伝で出演した番組*30での、肩をすくめ手を口元にやり、瞳をきらめかせて女優のように笑う姿であった*31。同番組内の「逃走中」でまさに男性的なダッシュを見せた後だったので対比に驚いたものである。女性誌の特集*32で結婚指輪をみつめる手や目の表情はひどく女性的であったし、最も驚いたのはステイホーム期間のリモート収録動画での仕草、雰囲気、容姿、喋り方、全てが線が細い若い女性のそれだったことである。昨今のドラマにおいて、身体は男性で女性の心を有した役を高橋一生さん*33井浦新さん*34が巧みに演じていたが、松村の“素”の姿の女性性は「巧みな演技」ではなく芯から女性そのものを思わせて、その場の役割や環境によって雌雄を変えるカクレクマノミのようである*35。そういう意味では松村はむしろ無意識下に変幻自在な演技の才を見せるようにすら思えるのだ。それが「お仕事としての演技」で展開される時が来るのか、その時松村は「憑依型」になるのか、筆者にはそれが楽しみである。

「観る者に何らかの感情を喚起させる(喚起力)」

香川照之さんは役作りについて「役作りではなく日常からの侵食である」との結論に至ったと語り、大友啓史監督は「生活は演技に還元されていく。どういうレベルで日々の生活を送るかによって、演技の幅は変わってくる*36」と述べているが、演技とは経験した事実や感情の再現で、いかなる名優でも結局演技には「その人らしさ」が表現され、それが説得力をもたせたり、観る者の感情を動かしたりするということだろうか。

では”その人らしさ”とは何だろう。長澤まさみさんは「自分がどういう人間であるのか明言できる程自分のことはわかっていないから自分の性格を問われると困る。しかし俳優は自分と異なるキャラクターを演じるのが仕事であり、観る方にとっては本人の性格はどうでもよいことなのだから自分のことがわからなくてもよいのではないか」と語った*37

その、松村の俳優個人を表出させない部分が生きたように思えたのが「クロスロード3」や「一億円のさようなら」「女王の法医学~屍活師」であったように思う。視聴者が役柄(準主役、あるいは二軸の過去の主役)と同じ目線でストーリーを理解できる、狂言回しのような役割であった。

一方で松村自身の経験や感情が活かされたように筆者には思われたのが「映画少年たち」「10の秘密」「パーフェクトワールド」であった。演技において過去の感情を呼び起こす手法が一般的であるのかどうかはわからないが、同世代がなかなか経験しないようなレベルの競争や失意を若くして経験してきた松村の、傷のないぴっかぴかの人には得ようもない、年齢にしては豊富な“感情のストック”が如実に表れ活かされたように感じられて、筆者は深く納得させられ心動かされたのである。

しかしこの現象は筆者に「感情の喚起力」における「推しの演技」の評価の陥穽への懸念を抱かせることになった。前術の長澤まさみさんの言葉に反論するようであるが、演じる俳優に思い入れのある立場からすれば「観る方にとっては本人の性格はどうでもよいこと」ではないのである。筆者は映画「無限の住人」で木村拓哉さんが役柄として表現した、不死に対する倦み、一瞬の死への憧れと戸惑い、思いがけず気付かされた生への執着などの感情に鑑賞前予期していた以上に心を動かされた。役柄上の表現が筆者に想定以上の感情を喚起したことに、撮影当時の木村さんの状況を知るが故の、その心情への慮りが関与していたことは否定できないのである*38

松村については既にその紆余曲折を把握し、人となりを「知っている気に」なっているがために、先入観なく見ていた「ぴんとこな」の澤山梢平や「TAKE FIVE」の堂城一馬のように「そこに当たり前に存在する」人物として見ることは難しいのかもしれない*39と考えさせられたのが「一億円のさようなら」であった。その、推しの演技の「感情の喚起力」におけるバイアスへの懸念がライアー×ライアー」を経て「レッドアイズ」において変化する経緯は事項各論で記述する。

4.演技各論

クロスロード3:飯塚伸

今どきの軽薄な青年のようでいて実は人間関係がよく見えていて、敬愛する上司の過労を心配したり、警察官が割にあわない仕事だと率直に述べたり。飯塚君は、主人公をはじめとする登場人物の、職業を全うするうえで生じる葛藤に思い入れしながら見ている筆者の共感をよぶ狂言回しとして重要な役割を果たしていた。

映画 少年たち:ダイケン

賢いので矛盾点や不正をみつけやすいが、礼儀正しいのでそれを剥き出しに表現することはよくないと抑制をかけるダイケンの焦燥感や諦念に、当時の現実の松村*40がそれまで経験してきた感情が再現されているように思えた。家庭環境に追い詰められた末に先生を刺した時の虚ろで静かな表情の中、頬の筋肉の一瞬の微動からだけ内心の緊張と絶望が伝わってきた。大好きな世界ではあるが、過剰で若干奇矯な印象を与える映画において、音楽の場面以外では実は皆、演技は抑制が効いていた。

10の秘密:伊達翼=岩瀬真一郎

本作品で印象的だったのは、翼青年が「周囲の感情に鈍感なため悪意なく、無自覚に人を傷つける白河圭太」に対しておし隠そうとしつつも全身から滲ませる内心の不快感と猜疑心である。ジャズバーで白河と対峙した後、娘の変化に極めて鈍感であるにも関わらずよき父を自認する主人公に対する「いらいらするんだよ」という独白や、主人公に娘と一緒にいることを咎められた際の、「これでいいですか?」「だからこれを金で済むと思った?」などの台詞に込められた「悪意の欠片もないつもりで人を踏みにじって、それに“気づかない”人」に対する苛立ち。それは1章で論じたように「“気が付きすぎる”という美点が“気が付かない人”に対するいら立ちや憤りに繋がることも少なくないのではないだろうか」と考える筆者のうがった見方であるかもしれないが、松村の中に底流のようにある感情の澱が表出してきたように思えてならなかったのである。

パーフェクトワールド:渡辺晴人

役柄やhandicappedの人生に対する洞察力、義足・松葉杖・車いすバスケットなど身体の動きについての松村の研究熱心さと誠実さ、器用さが高く評価された本作。実は筆者が最も心揺さぶられたのは、晴人青年が発する「働き方かいか~く」という台詞であった。苦境にありながら平素のキャラクターを壊さぬ少々ふざけた明るい口調で冗談めかして発した一見関係ない台詞の声色と、電話の相手には見えない表情に、痛さ、悔しさ、やるせなさ、虚勢、辛さ、強がり、意地、といった晴人が積年抱えてきた思いが乗っているようで、そのくせやはり「若者の軽いノリ」で受け取って欲しいとの屈折した思いもはらんでいるようで。そこに松村の紆余曲折が凝縮されたように感じられて、この台詞は松村ならではの真骨頂だと筆者は感じいったものであった。

一億円のさようなら:加納鉄平(28~35歳)

松村の初の連続ドラマ主演作品でありながら、だからこそ、鉄平の人生を左右する第1話での行動に納得がいかず、その後の展開に疑問を抱き続けてしまったドラマ。「推しの演技を評価する」ことについて考えさせられた作品であった。

問題の中心は、駅で夏代を連れ去るシーン。「已むに已まれぬ激しい恋情に駆られて」の行動というより、母親と語っていたように「いい人だと思っていた人が“正しくないこと”をしているのを正す」学級委員のような行動のように見えて。後に「どうして左遷されるのか心当たりがない」という展開になるからには「正そうとしての行動」であったのかもしれないが、それは「世話になっている取引先の責任者の恋人(不倫とはいえ)を、それと知っていて奪う」という、どう考えても会社での立場や仕事に大きく影響する尋常ではない行動の動機として十分なのか。それが「恋焦がれて正常な判断力を失った結果」あるいは「夏代との合意の上での行動」だったとするには、幾度見直してみてもその前の両者の関わりや、その後の中華料理店や看護室での会話や雰囲気からは略奪行為に至る程の深い関係性や衝動が伺えなかった。実はコロナ禍の撮影で当初の設定や撮影スケジュールが変わり、両者の関係の深まりを示唆するシーンが削除されたのではないかと考えた程である。

しかし、そう感じてしまった筆者の方に、演じる松村の感情のストックに「一時の恋愛感情のために後先考えず衝動的に行動してしまう」はないだろう*41という先入観があったのか。あるいは嫉妬があったのか*42。逆に演じる松村の方に、同時期撮影していた「ライアー×ライアー」の撮影開始前に書いたブログにこめられたような「ファンへの気遣い*43」があり、それがために無意識に恋愛の激情を全開に演じることに制限がかかったのか。

いずれにしても友人、知人に確認して自分の見方が「厳し過ぎる」と言われたことから、拘っていたのは筆者だけであったと、「推しの演技」を評価することの難しさを考えでしまったものであった*44

このドラマでは森田望智さんが感情を露わにしたり、人を翻弄したりする「攻撃的」な演技なのに対し、松村が“演技合戦”に走らず抑えているように見えて、それが森田さんの夏代をひきたてていたように思えた。松村が選べるわけではないが、森田さんはじめ最近共演する女優陣が揃いもそろって、ただきれいというのではなく個性的で演技に対する根性がすわっていそうな知る人ぞ知る実力派という印象(山田杏奈さん、森七菜さん、趣里さん)の方達ばかりなのが、松村への制作陣の評価が反映されているようで嬉しい。本作の森田さんがかっさらっっていくタイプであるとしたら、逆に「相手役俳優をこの上なく美しく引き立たせる*45上白石萌音さんとの共演がお互いにどう作用するのか「カムカムエヴリバディ」は非常に楽しみである。

ライアー×ライアー:高槻透

誰もが見る話題の超大作というわけではないけれど、後に松村を何かのきっかけで知った人が振返って見た時に、既に素敵な演技をされていたのだと思ってもらえるはずだし、坂道のアポロン同様、松村の出演作が快作・佳作揃いであると、その出演作の選択眼を正しいと思ってもらえるだろう。脚本の徳永さんは原作の設定に説得力を与えて下さり、監督はコメディというよりも感情の機微を丁寧に映し出すことに成功していて、見る前の不安が杞憂であったと思えた作品。

この作品については本論文執筆の動機となった程に制作発表段階から思い入れがあったため、時系列で筆者の心情を振り返りながら語るという記述になる。

2020年6月23日。ライアー×ライアー撮影開始前、W主演公表に際し松村が綴った不安を隠さず演技への思いを吐露し、痛々しいくらいに気遣いに満ちた言葉*46に、筆者は真剣にこの映画と松村の成功を願った。しかし同時に筆者はひどく楽観的に、自身の内面の情けなさや矜持や面白さを深堀りしては客観的なツッコミを入れられる松村にラブコメが向いていないわけがないと思ったし、「松村×ラブコメ」は作品としても”成長戦略”としても大正解だと確信していた。どうせなら大人の自分が嫉妬してしまうくらいに振りきって恋愛を演じてほしいと願っていた。

コロナ禍の短期集中撮影に無事を祈り、真夏のクランクアップ映像に安堵した。贔屓の俳優が出ているのに、キャッチさや話題性を追求するあまり煽情的なシーンやどぎつい台詞が強調された漫画原作実写映画にがっかりして映画館を後にした記憶が蘇っては、耶雲監督のインタビューを精神安定剤のように読み返し、松村の言葉を反芻しては、大丈夫と言い聞かせてきた。

10月の特報映像が出て雰囲気のよさ、上品さは感じたけれど、切り取られた映像では不自然に見えなくもなかった透の「デレ」の表情に、苛立ちや不快感、焦燥など得意な表現に比べ、求められて笑顔を作るのは苦手なのだろうかとも思った。

公開が近づく1月、本格的なメディアラッシュが始まり、質量ともにこれまで経験したことのない広報活動が嬉しい半面、追いつくのに必死だった。

初鑑賞できたのは舞台挨拶中継回。上映開始まで嬉しい反面不安もあって、そのためかROBOTのロゴが拍動するのを見ただけで泣けそうだった。しかし、映画は想像以上によかった。

切り取られた宣伝映像で硬く見えた表情が、話を通して意味を持ち、松村は自然に、でもなく演じすぎることもなく、松村北斗を透かして見せてしまうこともなく、透として映像の中にいた。冷たい一瞥、何してんの?と訝し気な顔、気が進まないなら、と探る様な顔、みなからの着信時の視線の動きと安堵の顔、全てから透の心情が的確に伝わってきた。はにかむ透、心情を自ら説明する台詞など一つもない前半、実は塗りこめられた物で本心は役としての透本人にすらわかっておらず、当然明示はされていないけれど、透の言葉や行動に疑問を挟む余地はなかった。

軽い嫉妬を感じる程度には松村の恋情の表現は的確だった*47。「一億円のさようなら」では恋愛感情で人生を台無しにするような行動に出る人間には思えなかった鉄平を、恐らく自分は松村という人を通して認識していたのだったろう。が、ここでは恋のためにエクアドルに行ってしまいそうだったり、人格を変えてまで生涯かけて真情をひた隠しにしようとしたりする人間を演じていて、逆に松村の中にそういう部分があるのか、とすら思う程だった。別れたくないと感情を爆発させるシーンではさらに奥に我知らず隠された本心が下敷きにありつつ、表層では真剣にそう思っていることがよく伝わってきた。筆者が唯一松村を役に透かして見てしまったのは、4回目の鑑賞時。シネクイントでクラフトビールを手に2階席で1人で観た時だった*48。アルコールに筆者の自意識と緊張感が薄れたためか、それまで湊や烏丸君に寄っていた心情がとうとう透に素直に焦点を合わせられるようになったのか、本作を通じて、初めて冷静に客観的に俳優松村を見て真っ当に評価し得たのもその時だったかもしれない。みなに別れを切り出された時の「別れたくない」よりも、自分で切り出す「別れよう」の方がはるかに辛そうに見えたのだった。“他人から言われること”に感情的にならないよう対応する優しさや冷静な防衛本能、対して“自分が他人を傷つけること”には耐えがたい辛さを感じているように思えて、そこに松村という人の在り方を見てしまったのではないかとほんのり酔った頭のバックグラウンドで考えていた。

人情の機微に泣かされた印象ではあるが、ラブコメを冠する作品である。まさに悲喜こもごもという感じのコメディ部分も上品で素敵だった。間違えば寒くなりそうなビンタ跡を付けた頬やドアの影で立ち聞きする透も、面白くいじらしかった*49。松村や耶雲監督が語ったように*50、森七菜さんは“化け物”だった。こちらは心情が丸わかりになる台詞だらけだけれど、説明がましくない。森さんが上手過ぎて、コメディ要素が大げさでない自然な「普通に生活している人の行動」に見えてしまって、逆にくすっと笑えても大笑いにはならない。風呂掃除をしながら、湊がみなへの嫉妬心をうっすら自覚するシーンの説得力は、コメディ要素ではなく筆者には胸に迫るシーンだった。一つ間違えれば主人公の女性ファンから嫌われかねない役をいやらしくなく演じ切った(そうあった)森さんと、そう撮り切った耶雲監督に心から素晴らしいと思った。

舞台挨拶中継では、場の中心にいるより少々脇にいることを好み、主役のように振舞うことに居心地悪く思っているように思えた松村が主役として場を素敵に盛り上げていた。日比谷のスクリーン1の大画面を客席中央で真正面から見た時の松村は、透を演じてからほんの7か月程度だというのにひどく大人に見えて、ジェシー君のいう「俳優顔」とはこのことであったかと思った。最後の挨拶で思いがけず泣けてきて、隣の友人も泣いていてくれてよかったと思ったけれど、よく見たら画面の松村の目にも薄っすら涙が滲んでいるようだった。筆者の長い8か月が報われた。

レッドアイズ:小牧要

本作とそれに伴う宣伝活動を通じて筆者が松村から感じたのは、明らかにこれまでと異なる「肩の力がぬけた感」であった。それまでの「上手な演技」の周りにごく薄い透明な鎧のように纏っていた「上手くなくては申し訳ない」とでもいうような自縄自縛が外れて、明確によい意味で「これまでとは違う」演じ方のように思えたのだ*51

同時に筆者も前述の「推しの陥穽」を意識することなく素直に観ることができたのが面白いと思った。伸び伸び楽しそうに小牧を生きていた松村に、どこまでが嘘で誰が騙しているのか複雑な入れ子構造になっていた第9話で筆者は震撼させられ(つまり騙されて)た。“内通者として”伏見と対峙する小牧が“洗脳されている体で”語る「先生の言う事、絶対なんだよね」の台詞の薄気味悪さは衝撃的であった。本当に洗脳されているかのような、他の部分は真っ当なのに、ある絶対者のいう事が全く不合理で矛盾だらけでも、そこだけ奇妙に信じ込んでいる気持ち悪さ。敢えていうなら前述の「アイドルとしての素の松村」に突然湧き出る“逸脱”に近いように思えて、あれはやはり計算づくの“逸脱”で、いつでも取り出せるものであったのだろうか?とまで思うのであった。類型的な「実は犯人でした」の演技ではなかったし、ごめんねと言いつつ、行動には悪意も疑問もなかったのではないかという顔を経て、少しだけ正気の部分の罪の意識が「撃てよ」という叫びに表れて。撃たれてただ倒れても、そこで安堵や悲しみや、何らかの余計な感情を混じりこませず、ただ純粋に「撃たれた事実」だけ表現する凄さ。真相の明かされた第10話、最終的には小牧は内通者ではなく、ましてや洗脳などではなく、ただ脅されたからという理由の正気の行動であったのだから、第9話の小牧君の「伏見に“洗脳されて殺しました”と思わせる演技」が素人にしては逆に上手過ぎなかったか、“小牧に騙されそうになった伏見”同様、筆者も“小牧を演じる松村”にまんまと騙された第9話、これは松村にしてやられた、と嬉しく*52思ったのであった。

女王の法医学~屍活師~:犬飼一

視聴者の法医学と謎解きの世界への覗き窓のような、狂言まわしとしてのる犬飼君の存在が活きる作品。松村のお芝居のフォーマット的な物は、これまでの作品と変わらないのだと思う。兄弟達の朝食を作る松村は「映画少年たち」と重なったし、きつい上司の言動に愚痴ったり不満そうな顔をしたりする様は「クロスロード3」、初心者として解剖に立ち会う様は「パーフェクトワールド」を思い起こさせた。しかし本作では本当に伸び伸びとしているように思えた*53。共演者も素敵で話の内容も質もよく、シリーズ化を熱望する一作。

4.おわりに

本論文では、まず鑑賞者としての筆者の要求を満たす条件から演技力を定義し、その要件である基礎能力を松村が有することを検証した。次に演技力について論じる中で併せて松村の演技における特徴を論じた。本論文の弱点は筆者が松村を応援する立場であることで、その人となりや背景を知った気になっていることが考察のバイアスとなる可能性である。そのバイアスを検証し、ある程度の解決をみた過程を経て、筆者の演技を評価する能力は向上したのではないだろうか。

 

執筆の動機となったのは本文中繰り返し引用した、昨年の主演映画制作公表時の松村のブログであった。「お芝居が上手になりたい」という熱意と「到底向いて無い」との自己認識。では、お芝居の適性=演技力とは何なのであろうか。本当に松村は演技に向いていないのか、滑舌が悪いなんて、思いわずらわないで欲しい、映画の撮影に自信をもって臨んで欲しい。その思いが発端であった。

その知的能力の高さやまじめさ、努力する能力を以てすれば恐らく他の仕事に就いても一定以上の成功を収めていたであろう松村が、芸能活動を「これが好きだけれど、続けていていいのかな」と考えていた時期があり、それでもこの道を選んで筆者の心を動かす作品を創り出してくれていることに筆者は感謝している。松村は2020年に「夢は見なさい。ただ、かなえる必要はない。ただ、かなえるための日々を過ごすべきだ*54」と自らの芸能生活を述懐した。前者の”ただ”は前述の事柄に対する一部保留の接続詞であるが、続く”ただ”は「それより他にないと限定する様、ひたすら」の意の副詞で、そこに”べきだ”と続けた松村が、2021年春には「これしかない」からとやや力を抜いた口調でいいきっている*55ことに、筆者は感慨を覚えている。夢を叶えられないどころか、夢を持つことさえできない人間もいるが、今や松村は「好きなことをひたすら追いかけられる」立場になり得たのであり、これから全身全霊で仕事に向き合っていく覚悟が、それも非常に静かにひっそりと宣言されたことが心の底から幸せに思える。しかも、件のブログで松村が真っ先に述べたことが「届ける先の人のことを思う心は絶対に強く持ちます」なのである。この作品で「死ぬほどの努力をする」と言い、実際に成果を挙げた松村の動機が「ずっと誰かに応援していてもらいたい。誰かに元気とか勇気とか感動を与えたい*56」なのであるなら、その届け先の一ファンたる筆者は、その「誰か」は間違いなく自分であると自負している。しかし感動や勇気を与えてもらうのはこちらの受け取り方なので、演じ手としての松村に望むのは所属グループが常に示す「精魂込めて最高の物を作りました」との矜持であり、受け取り手たる筆者達に忖度せず、これまで通り精魂こめて、自分のやりたいことをやりたいようにやってくれることこそが筆者の望みてある。

応援する立場としては松村が「自分が好きなこと」をした結果のその作品から受取った物、感じたことをフィードバックすることが演じ手への敬意であるのかわからねど、他になにかしたいという気持ちの持って行き場が見つからず書き始めた2020年6月。日頃ヒトを診て分析しては問題点を抽出し解決策を考える生業に就いている悲しさで分析し始めたがために1年かかって完成をみたが、時間を経て続報では松村の迷いや卑下は解消されたようで、今となっては「そんなの必要ないね、もう」と笑って読み捨てて欲しいし、そのような状況にあってくれれば筆者は幸せである。

*1:FUKAYA, Yuko 2003 Effects of Peer-Reviewing in Revising Process of College Students’Writing. The Joint Workshop of Cognition and Learning Through Media-Communication for Advanced e-Learning, pp.69-72, 2003.

*2:北斗學園, 2020年5月19日

*3:飽きてしまったか多忙で凝る余裕がないのか、2020年秋頃から比較的通常の文体をとるようになっている

*4:2020年12月24日放送

*5:1対1のサシトーク【不仲の噂】京本大我×松村北斗 本当に仲が悪いのか検証してみた. ジャニーズJr.チャンネル, 2018年4月20日

*6:筆者は所謂「ビジネス不仲」発言も、アイドルがよく謗られる「ビジネス仲良し」を逆手にとったパロディ、自己演出の一環と考えている

*7:北斗學園

*8:ザテレビジョンカラーズ vol.50 GREEN

*9:日本映画navi vol/90, CINEMA SQUARE vol.124: ”空回り”という愛ある揶揄で微笑ましく語られている

*10:ライアー×ライアー」は「坂道のアポロン」プロデューサー、「女王の法医学~屍活師~」は「一億円のさようなら」の制作者からのオファーであると、松村は自身のブログに記している

*11:「確かさ」としたのは、その円滑さは憶測の域でしかないが、演技や仕事への松村の熱意を制作者に理解せしめることに成功しているという事実に基づいての表現である

*12:筆者に関していえばCHANGE THE ERAツアーで様々な歌いわけを聴き、いかなるジャンルの歌声でも、どんな役のどんな感情をのせた台詞でも、フリートークでも、どこをとっても筆者にとっては史上最高に好きな声だと感じた

*13:2020年7月配信

*14:声にこだわりの強いアニメファンからの指摘である

*15:「声の幅がある」「ドスの利いた声も使う」+act 2020年3月号

*16:北斗學園, 2020年6月23日

*17:柄本明さんが台詞について語って曰く「書いてあることを言うんです。他人が書いた言葉ですよね。だからそれを言うとき、やっぱり言えないってことに気づく。自分の言葉じゃないから。『自然にやれ』って言われるじゃない? 不自然なことしてるのよ。不自然なことしてるのに自然にやれって言われる筋合いないよね」Mr.スーツマンSHOW, 2020年7月6日

*18:松村は”アイドル”として初めてメディアに露出した際に自己紹介で自分の名前を噛むという経験をしている。幼い野心の達成への第一声としては歯噛みする出来だったのではないかとその想いを想像すると心痛むが、その恥ずかしさが滑舌の自縄自縛に関与してはいなったろうか。ファンにとっては初仕事の北斗少年の滑舌は「失敗」ではなく「心をわしづかみにする初々しさ」という印象であったろうに。もっとも、この憶測が欠片でも当たっているのなら、悩みこそ気の毒ではあれ、その心の動きこそ松村という人の魅力的なところではある。

*19:非常勤勤務していた時期があった

*20:https://www.waseda.jp/inst/weekly/column/2017/09/20/33678/

*21:Travis JapanSixTONESコラボ第2弾】ダンスしりとりでガチバトル, 2020年8月13日

✂️ 突然、何かに苦しみ出す松村北斗 - YouTube

*22:当時ひどく重く固く見えた扉も、現在Lifetimeで扉をイメージさせる音がしても自ずと未来に開かれる音としか聞こえないから、つくづくパフォーマンスというのは演者の状況を反映している

*23:劇場版私立バカレア高校のような見事な三段蹴りをまた大画面で観たいものである

*24:Strawberry BreakfastのMVがかっこいいを極めているのはメンバー全員の正装が抜群に似合う姿勢のよさも大きく関与していると思っている。メイキング映像ですら気を抜いていそうで姿勢がよい。2022年6月追記:雉真稔の佇まいが自然であったのには姿勢の要素も大きいと思っている

*25:on eSTを観た筆者の友人が終演後「北斗は本当にちょうどよい」と述べたことによる。類語:例年何回もEndless SHOCKを観劇する人々によるコウイチの相手役女優の最高評価は「邪魔にならない」だそうである。「完璧でありながら、ほどほど」の美学。2022年6月追記:マスカラの「ちょうどよい」には驚愕した。偶然だろうけれど

*26:ジャニーズというよくも悪くも先入観をもってみられるラベルが世間一般に浸透していない間に助演クラスで多くの作品にでることは演技力を磨く点、経験を積むという点においても戦略として非常に賢いと思う。さらにドラマでみかけたあの青年が、SixTONESに所属するアーティスト(アイドル)松村北斗だった!という”認識・発見”をした時にその人に「自ら見出した」喜びを与えうるのだと思う

*27:『すごく作りこんでいるのに「やりすぎる一歩手前」で引く所』『一見「前へ、前へ」とがつがつしているようで、過剰の一歩手前で含羞の色をみせる』のがSixTONESの特長のように思うが

*28:前述の「突然苦しみ出す人」や「Johnnys' ISLANDセルフィー2020」のジェシー君の後ろで横たわりこちらを見ている「ミレイのオフィーリア」を思わせる写真等

*29:あくまで、職業アイドルとしてファンに見せる範囲での”素”であるが

*30:FNS番組対抗 オールスター春の祭典目利き王決定戦, 2019年4月1日

*31:この笑い方は時にアイドル誌のオフショットなどで見られる

*32:MORE 2020年12月号

*33:「天国と地獄~サイコな2人~」

*34:「あのとき​キスしておけば」

*35:脳裏に強い思慕の情の対象になる女性の像が常にあり、反芻するうちにその仕草が出てしまうのではないか、などと想像してみたりするくらい

*36:るろうに剣心 最終章 The Finalパンフレット

*37:https://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20200630-00002200-fujinjp-ent

*38:そこまでファンではない木村さんではあるが、所属グループの一連の経緯から判官びいき的な気持ちでみていたように思う

*39:2019年12月に帝国劇場のJohnny's King and Prince IsLANDにおいて各グループの映像が背景に流れた際、ステージ上においては瞬間的に違和感を生じせしめる程度に見慣れた視覚情報が入り、直後にそれがSixTONSの映像だと認識した瞬間「もう逃れられないもの」と認識し、笑ってしまったのである。群衆の中でもヒトの脳は瞬時に家族などよく知る顔を認識して他の群衆から選別するといわれているが、SixTOENSは既に脳に「家族のような特別な存在」として認知されてしまっていたのである

*40:ファンとしては卵焼き器の手慣れた扱いに、お弁当作りする姿をちょっとだけ重ねてしまったものである

*41:好きになったらどうする?の質問に「好きじゃないんじゃないかと思う」と答えた松村が、である。恋愛のために仕事をないがしろにするような激情がないことは、アイドルとして生きていく人間としてファンからはこの上なく安心な考え方であるのだが

*42:情事の後を匂わせ下着でベッドサイドに立つシーン(ぴんとこな)や不意打ちに女性教師に意味不明なキスをする(黒の女教師)などその年代のジャニーズにしてはかなり強めのシーンこそあれ、また微笑ましいデート(SHARK)やほんのりした慕情を匂わせる(私立バカレア高校)程度はあっても、所謂恋愛感情をもって女性と絡むシーンのほぼなかった松村の「正攻法」の恋愛に嫉妬したのかとすら思った

*43:「届ける先の人のことを思う心は絶対に強く持ちます」とは、ファンが女優とのシーンに傷ついたりすることや、はき違えた熱心さでファンが相手役の女優を誹謗中傷・攻撃したりすること、などの誰も幸せでない事態への予防線的気遣いに思えて、演技への熱意の吐露と併せてその丁寧な文章に何とも切ない心持ちになった。北斗學園 2020年6月23日

*44:直前のラジオで不安の中で演じていたと語っていた松村の初の連続ドラマ主演作の内容に納得できない自分と、納得させてくれない脚本に、歯がゆく思い

*45:なのに自分もきちんと主張して決して霞まないのがすごい女優さんである

*46:北斗學園, 2020年6月23日

*47:SixTONESのメンバーに対してYouTubeで自然に見せるような笑顔を女優さんに向けているな、と思えてしまった時こそが、本当に筆者が嫉妬する時であろうけれど

*48:老舗ミニシアターでかけていただいていることが嬉しくて、恐らく最後の映画館での鑑賞になりそうだと思ったこともあり、お祝いにアルコールとカタラーナを。1階はその時期らしからぬ入りだった

*49:3回目の鑑賞時、場内はよく笑う学生層が多かったが、玄関の立ち聞きが実はいじらしい行動だったと明かされるシーンでは彼らもはっ、と息をもらしていた

*50:TOKYO SPEAKEASY, 2021年2月10日

*51:それが「きのう何食べた?」における内野さんの指導によるものなのであれば、この映画も本当に楽しみである。ボンビーガールでも自然に振舞い語りまくっていた松村にどれだけ筆者が嬉しかったことか

*52:Twitterで思い切り洗脳前提で語ってしまったので、本当に決まり悪かったが

*53:松村のスクラブが非常に似合うのが予想通りで、これも嬉しかった1件

*54:アトリエの前で,第10回「日の出」, 2020年

*55:週刊テレビガイド, 2021年4月30日号

*56:スポーツ報知, 2020年2月7日